2年後の教室を想像してみてください。
そこでは、子どもが試験のために席に着くことは二度とありません。なぜなら、試験が「終わる」こと自体がなくなったからです。彼女の家庭教師は、1万回もの些細なやり取りを通じて彼女の思考パターンを観察してきたAIであり、どんな試験監督にも真似できないレベルで彼女のことを熟知しています。分数を解くときに数秒躊躇する癖も、どんな例え話ならピンときて、どんな説明なら右から左へ聞き流されてしまうかも、すべて把握しているのです。ダッシュボードにある彼女の「心」は、1時間ごとに更新される多次元のデジタル曲線として可視化されています。もはやマークシートの円を黒く塗りつぶす人は誰もいません。テストは家庭教師のなかに溶け込み、そしてその家庭教師は優しく微笑んでいます。
これはサイエンス・フィクションの話ではありません。この春、国際バカロレア(IB)は試験のオンライン化へと舵を切り始め、あらゆる試験実施企業が同じ道を歩んでいます。始まりは、従来型の試験に取り組む生徒をカメラで監視することかもしれませんが、最終的には時間制限のある一斉試験という形式そのものが時代遅れになっていくでしょう。その謳い文句は魅力的であり、その論理においては正論です。機械(AI)が生徒を穏やかに、そして永遠に評価し続け、本人が気づかないほど自然に「教えること」と「測ること」を融合できるというのに、なぜたった一度の「ツイてない火曜日」のために子どもの未来を台無しにする必要があるでしょうか? 一発勝負の試験は残酷でした。それに比べ、常に行われ続ける試験は親切です。それは状況に合わせて変化し、個人に最適化され、そして、すべてを把握しているのです。
マヤという名の生徒を例に挙げてみましょう。彼女はとても優秀で、人工知能の家庭教師もそのことを知っています。彼女は20分で課題を終わらせ、緑色の「達成」という字でそのページは埋め尽くされます。彼女がもらえるご褒美は、「さらなる課題」です。より多くの課題、より高いレベル、より早いペース。春を迎える頃には、彼女は学年で2つ分も先へと進み、誰もがそれを誇りに思っています。
しかし、彼女は自らの手で何かを作り上げたことが一度もありません。自分が嫌になるほど推敲を重ねた文章もなければ、一向に進展しない問題に行き詰まって丸一週間悩み抜いた経験もありません。機械はそれらすべてを綺麗に飛び越えて、彼女を評価しました。そうせざるを得ないからです。機械が明瞭に測定できるのは、「正解か不正解か」「緑か赤か」という、はっきりと決着がつくものだけです。はっきり明確な情報こそが良いデータになります。一方で、「あいまいさ」は雑音に過ぎず、雑音は削ぎ落とされてしまうのです。すべてを整然とした概念の箱に分類するAIにとって、境界的な条件はエラーの要因となります。しかし、対象が人間である場合、境界条件とは「単に他の子とは違っている子ども」のことなのです。今こそ、最も人間らしいであろう規格外の存在たちを隠すのではなく、讃える時が来ています。
その公園の向かいにある、年間約900万円もの学費がかかる学校では、オリバーが9月の時点でマヤと同じ内容の学習を終了していました。しかし、誰一人として歓声をあげません。なぜならそこでは、テストに合格することはゴールではないからです。実際の舞台で本物の観客を前にした発表にとって役に立たない限り、誰もAI相手の成績など気にしません。ボット(人工知能)の観客では意味がないのです。AI家庭教師との学習は、オリバーにとって単なる最初のハードルに過ぎません。彼は、その部分をできる限り早く詰め込んで終わらせます。自分がはるかに好んでいる、より自主的で深い思考を要するプロジェクト学習に辿り着きたいからです。AI家庭教師からの合格が出た後、オリバーは1つのプロジェクトに5週間を費やし、その間に3回も作り直しました。ある日の放課後、彼は諦めてやめようとしましたが、教師はそれを認めませんでした。そして彼の両親にも協力してもらうよう電話をかけました。5月、彼は初対面の審査員たちの前でその成果を発表し、その最中にプロの審査員たちでさえ考えてもみなかった見識を提示しました。今や、学びを得ているのは審査員たちの側だったのです。
マヤにはそのような審査員や観客はいません。彼女の家庭教師(AI)は彼女を祝福し、進級させます。しかし、彼女が作り上げたものを発表させるために、人間たちを同じ部屋へと呼び集めるようなことは絶対にしません。AI家庭教師は苦戦や葛藤こそを排除するようにと訓練されてきたのです。しかし、教育において本当に価値があるのは、まさにこの「身になる苦戦(Productive struggle)」にほかなりません。AIはマヤを卒業への最短ルートへと導きました。なぜ遠回りをする人がいるのか、AIには想像もつかないのです。
世間は、ポートフォリオ評価(成果物重視)の学校の方が「生ぬるい教育」をしていると思い込んでいます。ですが、よく見直してみてください。両方の子どもが学習内容を詰め込みましたが、そこで立ち止まることを許されたのは一方だけでした。ポートフォリオ校は、テストを単なる通過門として扱っています。そしてこの順序は、富裕層の単なる特権ではありません。これこそが、学習科学が何十年にもわたって提示してきた原則なのです。すなわち、「まずは基本内容を習得し、頭脳を自由に使える状態にしてから創造へと向かう。これこそが考えを真に定着させる機会となる」という原則です。そして門の向こうには、より過酷な作業が待っています。何週間にも及ぶ「身になる苦戦」、度重なる推敲――脳科学が『これこそが学習を定着させるサイクルだ』と裏付ける「過程」そのものです。そして最後には、成果発表が控えています。そこには本物の観客がいます。厳しい反応をされるかもしれません、そう思うことは生徒が本気で取り組む動機になるのです。
一方で、なるべく安価にしたい教育システムは、テストを目的地として扱います。そのテストという門をくぐり抜けても、その先に待っているのはコンクリートの壁だけなのです。産業化された評価制度をどれほど完璧に仕上げようと、それが「産業化された評価」であることに変わりはありません。その方向性は常に上意下達(トップダウン)です。相変わらず一方方向のままです。曖昧さやニュアンスが入り込む余地がないのは、機械にはそれが採点できないからです。標準化テストはいつだって「削ぎ落とし」によって成り立ってきました。人間の心の複雑さを、「正しい」か「間違っている」という判定ができる程度にまで削ぎ落としてきたのです。AI家庭教師もそれを解決したわけではありません。単にその削ぎ落としを「絶え間ないもの」にしただけです。評価の有効性を研究している人に尋ねてみてください。真の証拠は、生徒が作り出す「成果物」、その背景にある「過程」、大勢の人がいる場での「発表」、そして時間をかけて継続される「実践」のなかに宿ります。終わりなきテストが捉えられるのは、最初の「成果物」のほんの一部に過ぎず、残りの要素は一切捉えられません。それはすべての子どもの「消費者」の姿しか見ず、「創造者」としての姿には目をつぶっているからです。
機械は無秩序を嫌います。子どもを機械のように扱い、枠組みに収まらないとわかった瞬間に、その子どもを見捨ててしまうのです。機械が理解できない時の挙動を観察してみてください。立ち止まることも、居心地の悪さを感じながらもとどまることも、「待って」と言うこともしません。機械は、曖昧さだけは絶対に避けようと、雄弁かつ自信たっぷりに嘘をでっち上げます。たとえそれが生徒達への害になろうとも。
かつて行われた「ピグマリオン効果」の実験で、適当に選ばれた生徒たちのことを「近いうちに成績が急成長する」と教師たちに伝えました。そしてその年の終わりには、実際にそれらの生徒たちの能力が大きく開花したのです。教師の思い込みや信念は、子どもの成長を阻む「天井」にもなれば、どこまでも広がれる「空」にもなりうる、という研究結果です。周囲の期待とは、単に子どもに対する評価ではなく、子どもに直接影響を与える「力」なのです。だからこそ、もう一度あのダッシュボードを見てみてください。機械のような精密さで、各子どもの能力や性質が何であるかを、校内の大人全員に静かに突きつけています。そうした固定化された決めつけが何をもたらすのかは明白です。なぜなら、それもまた測定されてきたからです。最も厳格で懲罰的な学校に押し込められた生徒たちは、逮捕率も服役率も高く、卒業率は低下します。そうした負の経路は、停学処分や大人の感じる「悪い予感」などによって手作業で作られてきました。そこに「誰が遅れているか」「誰が意欲を失っているか」「誰がリスク要因か」などの機械の判断を供給し続ければ、どうなるでしょうか。ディストピア的な想像力は必要ありません。必要なのはスプレッドシート(表計算ソフト)だけです。
門の裏にある壁が、刑務所の壁であることすらあります。子どもが何者であるかを早期に決めつけ、それ以外の存在になることを滅多に許さないシステム――それは「効率化」などではありません。ダッシュボードを備えた「悪質で有害な指導」です。「真実が立ち現れるまで、『分からない』状態としてとどまること」を学ぶのが教育であるはずなのに、それこそができないこのシステムにどうして主導権を委ねることができるでしょうか。自ら苦戦し、葛藤することができない家庭教師に、「苦戦し、葛藤すること」を教えることなど不可能なのです。
安価で、自動化されたテスト――そして、その「安さ」こそが、裕福層以外のすべての子どもたちにあてがわれるものなのです。私はこの分岐をブログの『K字型の教室』の中で描き出しました。片方のグループは「創造」に向かって上に登り、もう片方のグループは「従順」に向かってすべり落ちていきます。AIはこの流れを加速させています。ロボットによる試験とは、下へ向かうグループ(衰退への道)には「贈り物」に見せかけて売りつけた代物です。そして、そのリスクは個々の成績表にとどまりません。なぜなら、大規模な学校教育は、そのまま大規模な「市民」を生み出すからです。上に向かうグループは、子どもが自ら選び、作り上げる作業を通じて、自らの「注意力」をコントロールできるよう訓練し、主張と根拠を持って答えに疑問を投げかけることのできる若者を社会に送り出します。もう片方のグループでは、スクリーン画面が見せてくるものに注意力を明け渡すよう訓練され、指示されたことしか考えられず、すべてをAIに依存する、そういう学生たちを卒業させていくのです。自らの意思を主張する若者を操ることは困難です。しかし、それができない世代を統治するのは容易いことです。それこそが、産業革命時代に作られた工場型学校の夢でした。(工場で働くために従順になるように訓練すること)フィヒテは、子どもたちを「学校管理者の望む以外の意思を抱くことすら不可能になるほど」徹底的に形作ろうと望み、自ら成績帳をつけました。完璧なテストとは、彼の成績帳にほかならないのです。そしてそれは、ついに自動化を果たしたのです。
下へ向かうグループ(衰退への道)の話が単なる絵空事に聞こえるなら、それがすでにロサンゼルスで始まっているという事実を知ってください。2024年の春、全米で2番目に大きなこの学区は、スタートアップ企業に対して約300万ドル(約4億9000万円)を支払い、「Ed」と名付けられたフレンドリーなAIアシスタントを導入しました。すべての子どもの記録へとつながる、温かみのある導入でした。「Ed」は3月にローンチされました。しかし6月までにその会社は倒産し、スタッフの大部分は去り、自社のエンジニアの1人からは「生徒のデータが基本的なプライバシー保護すらなされずに扱われている」という警告が学区に出される事態となったのです。事業が破綻した時、子どもたちのデータが一体どこへ消えたのか、誰一人として確信を持って答えることができませんでした。子どもたちの最も親密な学習記録を、安価に作られたシステムへと注ぎ込んだ挙句、わずか四半期(3か月)後にはシステムは煙のように消え去り、データは消失しました。親の手の届かない場所へ、そしてこのような情報漏洩においては、売りに出されることすらあるのです。まさにその同じ街で、ある保護者が「幼稚園に通う我が子が、学校で初めて覚えてきた歌を歌いながら帰宅した」と話してくれました。その歌は、文法チェックアプリ「グラマリー」の広告ソングでした。
これらは決して「機械・AIを否定する議論」ではありません。私が繰り返し主張している通り、AIはひとつの「増幅器(アンプ)」であり、私たちがそれをどちらに向けようとも、その先にあるものを増幅します。テスト対策に向けさせれば、終わりのないテストが立ち現れます。しかし、現実的な「本物の学び(アウトプット)」に向けさせれば、驚くべき可能性が手に届くようになります。終わりのない試験を大衆に受けさせ続けているそのテクノロジーを使って、公立学校の生徒への学習内容の習得を助け、その先へと伴走することもできるのです。年間6万ドル(900万円)の授業料を取る私立校が提供しているすべてのもの――「葛藤や試行錯誤」も含めて――は、格差を超えて構築可能です。まずは授業内容の習得を「学習のゴール」ではなく「最初の第一歩」とすることです。
これが実際に有効であることはすでに分かっています。ニューヨークは何十年もこの実験を続けているからです。パフォーマンス評価(実技・成果物評価)を採用する学校の卒業生は、標準テストで評価されてきた同世代の生徒たちよりも高い割合で大学へ進学し、中退せずに大学を続けています。
これは選択の問題です。そしてその決断の時は、私たちが気楽に考えている時期よりもずっと早く迫っています。歴史上のどの世代よりも精密に機械で子どもたちを測定・評価させる一方で、過去どの世代よりも教育が空洞化してしまう道を選ぶのか。それとも、機械には基礎的知識の門番の役割だけを担わせ、その門の向こう側で、地域や貧富の差を超えたすべての子どもに、より高度で困難な学びを求めていくのか。
「完璧なテスト」であろうと、それは所詮テストに過ぎません。テストとは学びが始まる場所です。そこが「学びの終着点」になってはならないのです。まずはテストに合格する。そしてその先で、世界がまだ見たこともないようなものを創り出し、大学の出願担当者や家族、友人といった「本物の観客」に向けて発表するのです。