2026年1月
byナダブゼマー
先月、大阪で私は、パフォーマンス評価を大規模に導入するうえで最も重要な批判を耳にしました。それは、生徒の口から出たものでした。
「探究を大学入試と結びつけたら、結局は新しい“受験対策”を生むだけじゃないですか?」
答えは「その通り」です。
それこそが、ハイステークス(結果が人生を左右する重大事)なもの全てに必ず起こる問題の核心です。
腐敗は必ず起こります。HS Cred は、その腐敗を前提に設計されています。
プロジェクト型学習を実施することは、標準化テスト対策に向けて教えるよりも、確かに大きな前進です。しかし、前進は免疫ではありません。一歩進むことと、歪みのない理想郷に到達することは同義ではないのです。
大阪のその生徒は、「探究塾」を指していました。お金のある家庭が、子どもに有利さを“購入”できる場所。 コーチが、生徒の思考そのものではなく、「それらしく見える提出物」を作る手助けをする。本物の思考ではなく、リハーサルされたパフォーマンス。探究は学びではなく、演劇になる。日本は、まさに今このジレンマを生きています。すべての公立高校生が「総合的な探究の時間」に参加しています。 それは国家レベルの必修カリキュラムです。しかし、探究が「評価対象」になり始めた瞬間、市場が生まれ、ゲーム化されることを日本は恐れています。だから、評価しない。必須科目にしたのに点数はつけない。その結果、授業の99%はいまだに、標準化試験の練習に費やされています。探究は「保護されたバブル」の中に浮かび、大学入試から切り離されます。
ニューヨーク州は、反対方向から同じ壁に向かっています。「Portrait of a Graduate(卒業生像)」は、提出物を通して学生の能力を示すべきだと宣言しています。しかし、その実践方法はまだ説明されていません。 制度は違えど、設計上の問題は同じです。アメリカでは、日本のように評価を放棄する代わりに、複雑なコンプライアンス制度を作ります。学校は学生を数十種類にも細分化された能力別に評価し、管理職は文書化の手順を義務化し、書類仕事だけが増えていきます。提出物そのものは二次的な存在となり、その学習過程を記録することが主役になる。 受験塾型の演劇ではなく、管理運営上の演劇です。
大阪での生徒の問いに続いて発言した教師は、さらに踏み込んでいました。彼女は、探究学習を大学入試と繋げれば、探究学習が壊れてしまうと確信していました。その懸念は修辞的なものではありません。診断的なものでした。 そして、その指摘が、答えへの道を示していました。
問題は、探究を入試と結びつけること自体ではありません。ハードディスクが年数とともに劣化するように時間と共に必ず腐敗していく世界において、それを十分な精度でどう設計するかです。もし探究が、「学生の成長物語」として教師から評価されるなら、ゲーム化は避けられません。人間の偏見も避けられません。 もしそれが、「官僚的な能力別チェックリスト」として評価されるなら、本当の学びを必然的に欠いた、コンプライアンス主導になるでしょう。
では、探究が、提出物を制作したらどうでしょう。それが大学職員が運営するチャンネルにアップロードされている動画だとしたら? その提出物が、公開されたルーブリックに基づいて、分野別の専門家によって評価されるとしたら? それこそが、動機づけの構造を大規模化させる方法です。たとえ一部の学習が偽装されたとしても、十分な量の本物の学びが残り、受験対策そのものを置き換えることができる。教室での学習には、内容理解を確認するための診断的テストは常に必要です。しかし、学習の最終段階においては、標準化テストに依存すべきではありません。
提出物は、腐敗に対する盾になります。なぜなら、それはデジタル形式として刻まれるからです。
これが、その構造です。
第一の防御層は、その生徒自身の教師です。 教師は、複数回のフィードバックと修正のサイクルを保証します。コーチやAIを送り込んでも、人間の教師と一緒にその修正プロセスをくぐり抜けることはできません。教師は生徒の文体を知っています。先月その概念に苦しんでいた姿を見ています。 最終提出物が、その学習の軌跡と一致しなければ、必ず気づきます。教師自身も、信頼できる門番であることにはっきりとした動機を持って取り組みます。彼らの信用は、それにかかっているからです。
第二の防御層は、利害関係を持たない3人の大学評価者です。彼らは生徒との関係を一切持たず、提出された動画に映っているものだけを評価します。判断は低推論(low-inference:主観を抑えた事実のみの観察) であり、生徒本人ではなく、作品そのものに焦点を当てます。その評価には、自分たちの大学の「クレジット・チャンネル」の評判がかかっています。 週5日、1日10分の作品を6本審査して、年収3万3千ドル(およそ490万円)。 彼らは本気で取り組みます。
第三にして、最も強力な防御層は、視聴者です。承認された提出物は、無料アカウントを持つ誰からでも閲覧可能です。一般の視聴者が、時間をかけて発行機関への信頼を築く、あるいは失わせる。 それ自体が品質管理になります。
生徒が自分の思考を記録するとき、作品はそれ自体で語ります。 標準化テストとの決定的な違いは、観客の存在です。従来のテストは、教室内のエッセイよりは優れていました。 なぜなら、ニューヨークの標準テストでは必ず3人の独立した評価者がそれぞれの答案を採点するからです。 教師の引き出しの中にしまわれて終わり、ということはありません。想像してみてください。その提出物が、誰でも見られるプラットフォームに公開される世界を。このデジタルでつながった巨大な観客群が、関わるすべての人にとってのその価値を高めるのです。
これは新しい発想ではありません。学術出版がそうです。 医療、法律、建築における専門資格認定も同じです。申請者は、独立した査読者に評価してもらうために費用を払い、その資格は提出物とともに公式記録に残ります。
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日本の教育と腐敗についての補足
日本の教育者には任期があります。彼らは、時間とともに大きくなる危険性に極めて敏感です。すべての教師、カウンセラー、管理職は、教育委員会によって一方的に配置され、同じ学校に4年以上留まることはできません。かつては、配偶者が働いていないことを前提に、全国どこへでも異動させられる時代もありました。
ニューヨーク市では、正反対の制度です。教師は特定の学校でテニュア(終身在職権)を得ます。日本の仕組みは、組織的記憶を犠牲にして新鮮な視点を優先します。 どちらの制度も完璧ではありません。 しかし日本の設計は、私たちアメリカ人がしばしば見過ごしている一点を認識しています。腐敗とは道徳的失敗ではなく、構造的必然なのです。だからこそ、管理しなければならない、ということです。
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私が今、危惧していることについてお話しします。ニューヨーク州では、すでに法律が成立しました。 巨大企業グループが、生徒ポートフォリオを整理する製品を必ず立ち上げるでしょう。ETSはすでに mastery.org を所有しています。そして奇跡的に、法案成立からわずか数か月後に、HSクレジットは生徒を受け入れられる状態にあります。 私たちは、何年も前からこのことを考えてきたのです。しかし、これは競争です。私たちに必要なのは資金ではありません。ユーザーです。株主の利益のために設計された仕組みが先に大規模化する前に、生徒のための仕組みを私たちが構築できるかどうかが問われています。
ニューヨーク市の新市長にとって、学術的な動画制作を大規模化させるモデルはすでに存在します。それが、青年ジャーナリズム連合の J4A イニシアチブです。彼らの提出物は、私たちのプラットフォームで単位認定される内容そのものです。教育委員会は、J4Aを「Portrait of a Graduate」の実践チームにすべきです。ジャーナリズムと同じく、生徒の動画は、査定に耐えるか、耐えないかのどちらかです。チェックリストではなく提出物から始めた時、真の学びに対する意味ある評価が可能になります。
授業に沿って自分の思考を記録・編集することを一度学べば、 生徒は他のどの教科でも同じことができるようになります。そうすることで、能力を積み重ねていくことができます。そうして、複数教科を交えた真正な評価ができるインフラが手に入るのです。教師が授業内容を根本から作り替えたり、管理職がコンプライアンス制度を新たに構築する必要もありません。求められるのはただ一つです。学期の終わりに、生徒自身が制作した10分間の動画で、「何を学んだのか」を示すこと。現代の生徒たちにとって動画制作は、私たちにとってのパワーポイントや時間制限付きエッセイと同じくらい自然にできることです。
ニューヨーク州の教育長たちは、「Portrait of a Graduate」の実施を考える中で、分岐点に立っています。一方の道は、能力別評価システムです。新たな義務、新たな書類、新たな管理負担になります。 それは、本来、難易度の高いプロジェクトを指導するための、生徒のためにある教師の時間を浪費します。もう一方の道は、品質の高い少数の提出物と、外部による検証です。枠組みではなく、生徒の作品から始めることです。
教育庁にとって、これは単なる大学進学準備の話ではありません。労働市場への合図でもあります。問題を調査し、発見を説明し、利害関係者に提示し、 フィードバックを受けて修正できる生徒。そうした生徒こそが、判断力・コミュニケーション能力・ プレッシャー下で成果を出す力を求められる仕事に対応できるのです。
大阪でのあの問いは、贈り物でした。 被害が出る前に、その危険を言語化してくれたからです。日本とニューヨークは、同じ分岐点に立っています。どちらも探究をすると決断した。どちらも腐敗のリスクに直面している。この2年間に下される設計判断が、探究が「新たなゲーム化される関門」になるのか、それとも、生徒が自分の能力を表現できる場になれるのかを決めます。
答えは、探究と入試を切り離すことではありません。 答えは、正しい盾で探究の過程を守ることです。提出物。 独立した検証。 低推論(low-inference:主観を抑えた事実のみの観察) ルーブリック。そして、作品を確認する観客。形式的なことではなく、証拠から始めること。それによってのみ、真の学びの評価を大規模化させることができます。
HS Cred には、そのインフラがあります。残る問いはただ一つ。教育機関それぞれがその必要性を認識し、迅速に行動できるかどうかです。テスト会社による株主主導の代替案が立ち上がる前に。
ナダブ ゼマー
HS Cred, Inc. 創設者
元ニューヨーク市、学校再生校 校長
2025年12月、大阪大学にてパフォーマンス評価について講演
#PassionForLearning #AcademicCapital