先週、HS Credについての話し方を根本から変える「気づき」がありました。私たちは「credit(単位)」という言葉を使うのをやめたのです。大学の視点から見ると、この言葉はHS cred を正確に表していませんでした。私は元高校校長なので、「単位」という言葉は自然に感じていました。しかし、大学教授たちがこれほどの拒否反応を示すことを、私は十分に理解していなかったのです。
最初は、このプラットフォームを理解しようとしていたある教授との会話で起こりました。同じ会話が他でも繰り返されました。次には、大学の管理職から「自分のチームに、このアプリの説明をするのに“credit”以外の言葉を使ってほしい」という直接的なフィードバックを受けました。私は次第に、高校教育の世界ではなく、大学の世界の表現方法を考え始めました。
「HS Credは論文誌のようなものです。ただし、私たちが出版するのは高校生の研究を動画として発表したものです。大学の先生方がしているのは、どの作品を自分のチャンネルに掲載するかを選ぶことだけです。基準は先生方が決める。専門的な評価者を集め、各作品を複数の客観的評価で審査する。生徒は自分の学術的探究を示す、10分間の動画を提出します。それが基準を満たせば、出版されるのです」
そう説明すると、教授たちは首を横に振るのではなく、うなずき始めました。
それは彼らが理解できる言語だったのです。
「credit = 単位」という言葉は、大学教授に働きかける前から、すでに私たちの足を引っ張っていました。Googleの検索結果では金融機関と混同され、誤分類を修正してもらうためにAlphabetに直接訴えなければならなかったほどです。単位は学務課が管理するものです。単位は官僚的な管理単位です。単位という言葉は、法務部や会計部を呼び寄せ、単位互換の問題を引き起こします。人々は首を横に振り始めます。
単位という言葉は、「大学に何かを認証してもらいたい」「学生の成績記録に公式のスタンプを押してほしい」と頼んでいるように聞こえ、法務担当者を緊張させます。彼らは責任問題を思い浮かべ、結果として「NO」と言わざるを得なくなるのです。
そこで私は気づきました。私たちは、そんな許可構造をそもそも求めていないのだと。
むしろ、それは私たちの目指すものを制限してしまう。私たちが本当にやろうとしていることは、「単位」ではなく「出版された成果物」と呼ぶ方が正確なのです。 教授たちはすでに、同僚を評価するために「出版物」を使っています。だからこそ、高校卒業生の学術的探究を評価する方法としても理解できるのです。「何本の論文を出版しているか? どのジャーナルに?」
「なるほど。完全に理解できる」
教授たちは日常的に論文誌の編集者を務めています。研究助成を審査し、査読者を集め、基準を満たすかどうかを判断します。それは中央集権的な組織ではなく、個々の「専門家(ピア)」のネットワークとして行われています。どこの大学にも、どこの審査委員会にも支配されていません。この分散性こそが、同僚評価の制度に実践的な力を与えているのです。
HS Credでは、教授が自分の所属機関を明記することで、CUNYや大阪大学がその動画を公式に承認したと誤解されることなく、教授を参加させることができます。大学は「許可」を与えるのではなく、「文脈」を提供するのです。
これこそが、HS Credを大学入試の正面玄関を通らずにスケールさせる突破口でした。
教授と、その自発的な同僚たちによる草の根ネットワークは、古い官僚的な中央集権の集まりよりも、はるかに創造的で柔軟なのです。
教育テクノロジー企業が大学と提携しようとすると、何が起きるでしょうか。
まず学部長室との面談。次に法務審査。調達部。パイロット提案。委員会承認。予算配分。既存システムとの統合。数年単位の時間がかかります。ほとんどの取り組みは、途中で消えてしまいます。それは価値がないからではなく、組織の動きが遅く、リスクを取らないためです。高校、大学で改革を試みた人は皆さんこのダンスのことを知っているでしょう。疲れるダンスです。いつ来るかわからない承認を待っている間にいいアイデアも行き場を失ってしまいます。
私たちはそのダンスを踊らないことにしました。
私たちは、論文誌の出版が何世紀にもわたってうまく機能してきた方法そのものを使って、仕組みを作りました。世界中どこにいる教授でも、HS Cred上で「チャンネル編集長」になることができます。本当は「ジャーナル」と呼びたいのですが、媒体が文章ではなく動画なので、デジタル時代に合わせて言葉を更新しました。
教授は「大学への入学準備ができているとみなす基準」を定め、専門家パネルを組織し、審査員には報酬が支払われます。生徒が10分間の学術動画を提出し、基準を満たせば、そのチャンネルに出版されます。作品は永続的で持ち運び可能な記録になります。 教授の名前と所属は、論文誌の編集長と同じように表示されます。ただし見た目は、YouTubeチャンネルのようなものです。高校2年生、3年生が作った、洗練された学術動画だけが並ぶチャンネルです。
どの大学も承認する必要はありません。一人の研究者が、研究者として当たり前のことをしているだけです。基準を定め、評価し、出版する価値があるかを決める。これは抜け道ではありません。何世紀にもわたり、知が検証されてきた正統な方法です。
現在、最初の2つの編集チームが動き始めています。
ニューヨーク市立大学シティカレッジ(CCNY)では、STEM研究所のスタッフが最初のHS Credチャンネルを作っています。日本では、探究チャンネルの準備が始まっています。教授たちは、高校3年生・2年生に対して、大学教員同士と同じ敬意を払う機会を見出しています。出版される機会を与えること。自分の専門分野における「大学準備ができている状態」を定義すること。そしてそれによって、高校生の勉強時間の使い方に影響を与えること。学生の提出物は、制度的な許可や組織間政治を待つことなく、信頼できる専門家の判断によって評価されるのです。
この方法は日本の文脈の中では特に輝きます。日本ではすべての公立高校で探究学習が必修化されましたが、大学入試では「何の評価にもならない」状態です。探究は、保護された泡の中に浮かび、評価もされないままです。その理由は恐れです。「探究が評価対象になれば、塾がそれを攻略し、学びが『演技』に堕落する」という恐れ。この恐れは真っ当でしょう。アメリカの標準テストが、まさにそうやって教育を空洞化させたからです。日本の教育者たちは、それを繰り返したくなかった。
しかし、このチャンネル制度は別の道を示します。
大阪の教授が自分のチャンネルの編集長になるとき、彼女は新しいテストを作っているのではありません。公開された基準がある「出版の場」を作っているのです。提出物もルーブリックも可視化され、透明性こそが腐敗を防ぎます。報酬という動機も手伝って、評価者たちは活き活きと活躍します。人間なら誰しもが持ってしまう偏見や感情からもきちんと距離を置きます。 どの学校の生徒でも、誰でも投稿できます。だから偏りも少ないでしょう。基準を満たした提出物は掲載されます。中身がそのまま評価対象になるため、見た目だけを整えてごまかすことはできません。自分の考えを動画の中で示せるかどうか、それだけです。その研究が検証に耐えるか否かが、唯一の判断基準です。公開性と透明性が、不正を防ぐ仕組みとして機能します。水準の低い動画を許容すれば、そのチャンネルの評価も必然的に低下します。生徒たちは、信頼性を保ち、大学入試において評価されるチャンネルを自ら選択するようになります。
最もワクワクするのは、このネットワークが成長したときです。新しい編集者が加わるたびに、新しい専門性、新しい基準、新しい価値観が持ち込まれます。 地域のエコシステムを探究課題にした生徒のために、環境科学の教授がチャンネルを作るかもしれません。歴史の先生なら、史料をもとにした調査やドキュメンタリー発表の場を作れるでしょう。数学の先生なら、答えだけでなく「どう考えたか」を語れる生徒のための場を作ることができます。
教授たちは、誰からも、どの大学からも許可を求める必要はありません。今まで使ってきている学者としての判断力を行使しているだけです。生徒は、大学とつながりのある高校に通っていなくても、同じように専門家から評価してもらえるようになります。
これが、まさに、HScredの新しいところです。
これまで、こうしたパフォーマンス評価の恩恵を受けられたのは、エリート校や一部の特別な学校に通う生徒だけでした。ニューヨーク・パフォーマンス評価コンソーシアムは、実に卓越した仕組みを築き上げましたが、対象としているのは数千校ある中のわずか38校に過ぎません。Big Picture Learning は、人生を変えるほどの徒弟制(アプレンティスシップ)型学習を生み出しましたが、構造的な改革に時間がかかるため、多くの学区にとって、その制度を成立させるのは困難でしょう。こうした教育機関での優れた実践は、外部へのインフラが存在しなかったために、そのネットワークの中に閉じ込められたままでした。
そして今、ようやくインフラが整いました。
ミシシッピの農村の生徒と、マンハッタンの私立校の生徒が、同じ基準で同じチームに評価されます。評価者は生徒の住所も学校名も知らず、思考の証拠だけを見るのです。評価者が確認するのは、10分間にわたる説明・分析・実演・議論です。それを評価し、合格すれば出版。だめなら修正して再提出。測られるのは提出物のみです。
何より素晴らしいのは、私たちがもはや入試担当部に売り込みをする必要がなくなったことです。彼らに選考プロセスの変更を求めることも、新しいアプリを売り込むこともありません。私たちが築いているのは、彼らが予期していようといまいと、いずれ必ず彼らの机の上に届くものです。出願書類とともに「出版された動画作品」へのリンクは学生によって運ばれてくるのです。入試担当者はそのリンクをクリックします。学生の研究プロジェクトの動画を初めの2分見て、こう思うでしょう。
「これは、どんな志望理由書やテストの点数よりも多くを語っている」と。
その瞬間から、彼らは問い始めます。それは、私たちが営業会議で説得したからでも、学長が戦略目標に掲げたからでもありません。証拠そのものが彼らを納得させたからです。まさに「百聞は一見に如かず」です。私たちが目指しているのは、まさにその「気づきの瞬間」です。論文誌は、大学機関からの許可を得る必要はありません。優れた研究を出版し、世界がそれに気づく——それだけです。評判は質のまわりに自然と積み重なり、信頼は証拠に従って生まれます。
私たちは、このすでに機能している仕組みを借りているだけです。それは何世紀にもわたり、あらゆる科学分野、あらゆる国で機能してきました。革新は、同僚評価という仕組みそのものではなく、その仕組みを、高校生の提出物に適用することです。しかも、従来の評価制度が機能不全に陥り、誰もがより良い指標を探している、まさにこの瞬間に行うこと。そこにこそ革新性があります。
HS Credを知ったある教授は、こう言いました。
「なぜ、これを始めるのにこんなに時間がかかったのだろう?」
ここで重要なのは「言葉」です。なぜなら、言葉は「何が可能か」の思考回路を形づくるからです。私たちが「credit(単位)」ではなく、また「journal(学術誌)」でもなく「Channel(チャンネル)」と言うと、教授たちはそれを自分たちの世界の言葉として理解します。「proctor(試験監督)」ではなく「Editor(編集者)」と言えば、そこに品位や尊厳を感じ取ります。「grading committee(採点委員会)」ではなく「Expert Panel(専門家パネル)」と言えば、官僚的な手続きに動員されるのではなく、自らの専門性が尊重されていると受け取られるのです。これらはマーケティング用語ではありません。学術文化の中にすでに存在している役割を、正確に表現した言葉です。私たちは、その役割を、真剣に扱われるべき生徒の提出物にまで拡張しているだけなのです。
これからHS Credに参加する生徒たちは、ここで学術的な記録を築く最初の世代となります。彼らは、どのチャンネルに提出するのかを選ぶ最初の生徒でもあります。すでに優れた提出物を生み出している生徒もいますが、その多くは成績をつけられた後、記録として残ることなく消えてしまいます。一方で、HS Credには「本物の観客」がいると知り、あえて新しい作品を生み出す生徒も現れるでしょう。そこには、彼らが敬意を抱く研究者から成る専門家パネル、そして家族や大学の学部長など、多くの閲覧者がいます。生徒は、どこへでも持ち運びのできる「出版された提出物」を恒久的に自分のものとして所有するのです。
「大学1年生は、入学時点で何を知っているべきでしょうか?」
これは、私たちから教授たち宛ての問いです。修辞的な問いではありません。招待状です。もし、新入学生があなたの教室に来る前に身につけているべき力について、強い考えを持っているのであれば、 その力を備えた学生が出版できるチャンネルを構築してください。カリキュラム委員会が追いつくのを待つ必要はありません。管理職に卒業要件の改訂を求める必要もありません。 HS Cred上に、あなた自身で出版の場を作ればよいのです。公正に評価してくれる同僚を集め、投稿を受け、出版に値するものを出版する。そして、生徒にその証拠を携えて次の世界へ進ませてください。その世界は、大学への準備性を見極めるためのより良い方法を切実に求めています。
入試担当者がHS Credを知る日、それは私たちが制度的な許可を得た日ではありません。むしろ、許可を前提とした仕組みそのものが問題だったと、彼らが気づく日です。学問は本来、質を大切にする個々人のネットワークを通じて広がってきました。官僚による上からの命令によってではありません。私たちは今、本来のやり方に立ち返ろうとしています。なぜなら、イノベーションが既存のテストに取って代わるほど「安全」かどうかを大学が議論し続けるのを、学生たちは待っていられないからです。
そして私たちは、テストが生徒の #PassionForLearning(学ぶことへの情熱) に深刻なダメージを与えていることを、あまりにもよく知っているのです。